_塚本三郎元民社党委員長小論集_ _当会支部最高顧問、塚本先生世評_

日本人総反省のとき      平成二十三年四月下旬     塚本三郎

原子力の損傷を当然とする米国

津波で破壊された原子力発電所の対応について、その直後に米国から、対策と救援の申し出が在った。政府も、東京電力も、一日中返事さえ出さなかった。否、出せなかった、と言うのが真相のようだ。津波による損傷の実態と、対応も把握出来なかったかららしい。

 米軍は、原子力による潜水艦や、航空母艦を数多く保有している。米海軍は、戦闘用であるから、原子力の強力な機動力こそ、敵の攻撃目標とされ、損傷することをも当然の事態と用意している。つまり破壊、破損は、いつでも起こり得る「戦争の事態」として用意し、破損、破壊を受けた時の、対応の訓練を怠っていないはずだ。

 日本の原子力発電は、万一の場合とは、テロの攻撃と、津波による一時的突発的、災害を考慮するのみであった。損傷による対応について、想定外と言い訳するのみで、日米では、損傷に対して、天と地の差があることを、日本政府が承知していなかったのか。

 こと原子力については、百戦錬磨の米軍の支援を、躊躇し、断わりながら、その始末でどうにもならなくなって、漸く米軍の協力に縋る政府の情けない対応に、科学立国と自負する日本人の苛立ちは大きく、加えて、プライドをも大きく傷付けた。

 今日に至っては、唯々、米軍の指導と協力にすがるのみが、原発事故の始末のようだ。

事態の推移を注視して報道せよ

 日本は連日、海洋汚染、大気汚染、そして、農産物汚染の報道で、恐怖を煽る結果を招いている。事態を重視することは必要だ。しかし、その及ぼす影響と効果も計るべきで、

発表するに当たっては、農業、水産当事者に、ナゼ打ち合わせと報告をしなかったのか。

 事態を配慮する国民は、これ等の報道によって、より神経質となり、被災地住民の窮乏を思いやり、殊更に自粛生活という好意のために、日々を質素に縮小し過ごしている。

 その結果、繁華街は勿論、百貨店に人影は殆ど見掛けない。一体これで良いのか。

 物事には、裏と面の両面が在る。不況に追い討ちを掛け、襲来した大災害をこそ、逆手にとって「黄金の復興計画」実行の時が来たと、某雑誌は大々的に報じたのも一理在る。

何ごとも善意に、そして前向きに対処する度胸と、発想が一面では必要でないか。

 高校野球の全国大会の開催に「是と非の両論」が交わったが、結果として開催して良かったとの声が大勢であった。禍に対しては、常に福をも抱えている。問題は福を引き出す発想と勇気が必要である。

 大地震が起こる前、三月三日の産経新聞の正論は、「もはや解散・総選挙以外にない」と題して大要次の如く述べている。 

 鳩山氏のみならず、小沢一郎代表、菅直人首相といった民主党要人の発言は、ころころ変り、野党時代に、自民党政権を攻撃した際のセリフが、自らに跳ね返ってくる。

〝ブーメラン現象〟をしばしば呈している。

 そもそも民主党は、こうした不誠実な政策マニフェストや、政治主導の名をもって政権を獲得したわけで、いざ政権の首座を占めれば、その張本人の際限なき修正と、そのたびに繰り返される空疎な言い訳である。今起こっていることは、菅政権の蹉跌ではない。

国家主権解体主義や、成長戦略なき再分配重視主義(要するに古典的な左翼的政策)を推進し、国防、安全保障の空洞化をもたらし、民主党政権そのものが限界である。早期の解散総選挙は、有権者が二年前の政権交代の意味を真剣に問い直す上で有益である、と。

それでも菅総理は、四年間で実績を見てほしい、という発言を繰り返している。支持率が一%になっても総理の座を離れない、との言も伝えられている。未だ二年も続ける気か。

四月十日の地方選挙は、民主党政権として総力を挙げたが、東京都も、北海道も、三重県も、知事選挙で自民党推薦候補に全敗を喫した。同様に全国各地の県会議員選挙も、惨憺たる大敗北であった。それでも、権力にしがみつく菅総理と、岡田幹事長の、権力亡者の姿は見るに堪えない。これでは、各地で活動する民主党員が不憫でならない。

総理の座に魔物が巣食う

 未曾有の大災害に直面した日本は、政治家が超党派で結束、協力することが政治の大任である。その点では、現在各政党が一致協力を惜しまない。

 されど超党派と雖も、政府という司令塔の指揮者が問題である。残念なことは、その司令塔の指揮官が、最大のネックとなっている。三月十一日の地震襲来の一週間前には、既に命脈が尽きて、風前の灯となり、自他共に認める絶命のピンチであった。

 政権の危機を脱したのは、天災のゆえであった。ならば、総理大臣の地位は、与、野党、何れからでも、辞任を求められれば執着しないと、菅直人総理が、辞意にこだわらない姿勢を、まず示した上で、協力要請をするならば、首相をして、救国の政権担当者とみなし、挙国一致の体制が整い、復興への足取りを進め得たであろう。

 だが、菅総理は、日本の危機を、自らの「延命の好機」と受け止めているらしい。

自分の意のままにならない部下達にイラダチを隠さず、また、自ら東京電力へ乗り込んでは、総理の地位を、ひけらかし、怒鳴り散らしていたと伝えられる。

 最悪の時に、最低の指揮者なるがゆえの、最悪の事態の襲来と、推察する。

問題は、前述の如き菅直人氏が、指令者としての地位を、自己保身第一と考えていることが、復興の障害となっているとみる。この人を除外することが第一であると政界では注視している。その人を外すことができない、総理大臣の地位に在るから悩みは深い。  

日本中の悪魔が、内閣総理大臣と云う地位に乗り移ってしまったのではないか。

この人が、いつでも「総理大臣の座を明け渡す」と、本人が一言述べることで、日本国中の、暗半分は消えうせると思われる。各政治家が問題ではない、総理そのものが問題である。

加えて、事態を深刻に考え、二人の女性議員(蓮舫、辻元)を政権の中枢に据えて、政府の補強とした。否、菅総理「延命の宣伝担当」と目論んでいたとも見られる。

野党も、大災害中ゆえに、この際、与野党が大連立に前向きである。だが菅首相が相手では全党一致の行動が起こせない、というジレンマを抱えている。菅直人氏が自発的に辞任する気配はない。――さればとて倒閣に動けば「政治的思惑」と批判を浴びかねない。

それと対比して、被災者が、冷静にして、道義心の下で、秩序正しく生きる姿が、全世界の注目を集め、同情と温かい救援を、日本国民に対して寄せてくれている。

政界とて、日本国民の代表者として、非常時だからこそ「政治休戦」を自民党のみならず、全野党も、日本国民と同じレベルで協力を惜しまない姿である。

形よりも真の魂を

 この大地震と巨大な津波こそ、天の警告と評することが、空理空論なのか。

 大災害が起こったとき、日蓮上人が提言した「立正安国論」を想起せざるを得ない。

先にも述べたが、「人心の荒廃と政治の腐敗」を招く時には七難が興る、その難とは、地震、津波、悪疫流行(インフルエンザ)、風俗の乱れ、暴風、政争、他国からの侵略、等々。

 日本は最大の危機に直面している。勿論この天災は、切り抜けられない苦難ではない。天災と云う危機は、仏教経典によれば、政治の乱れと、人心の悪化に対する、天の警告であると。このことは前回も引用し論じてきた。

 政治の乱れと言っても、現代社会では、最も発展した政体は、民主主義による議会主義政治とされている。日本は、その制度を最も忠実に遵守している国柄である。それでも、幾多の欠点と抜け穴があると見なければならない。

民主政治に対する、国民の尊厳が失われているのではないか。多数決と呼ぶ、形式のみが重点であって「魂の抜けガラ」と化した民主政治となっている。

政治、教育、宗教各界の総懺悔

 ならば、日本国内は、人間の尊厳や、遵法の精神に欠けた社会と、なっているとみるべきである。型式だけはまともでも、魂は抜けガラとみる。

 人間精神の尊厳を育てるのは、神、仏を中心に、唯一の指導原理とする宗教界である。

教育の世界以上に、宗教界は規律正しく、荘厳の限りを尽くしている。既存の仏教界や神道の神社、仏閣が厳存しており、その上、新興宗教教団の荘厳さは、外見的には、まばゆいばかりである。――恐らく、今日の日本社会は、宗教全盛の時代ではないか。

仏教や、神道各教団は勿論であるが、とりわけ、戦後一挙に新しい宗教団体が、敗戦による、大衆の飢えた心を癒す園として、新興宗教各教団は、老若男女を吸い寄せた。

その殿堂たるや、既存の神道や仏教各教団をもしのぐ程の、絢爛豪華を誇っている。

外見上からすれば、日本は、これら宗教の土台が在ってこそ、日本的優しさと、忍耐力を堂々と示している。ゆえに人間の魂を堅固に育てて来たと各界から尊敬されている。

それなのに、なぜ大自然は、他国に比類なき大難を、この日本へ浴びせて来つつあるのか。庶民も、政治家も、一大反省が求められている。

最も叫ばなければならぬのは、人心を癒し、教導すべき宗教界が、形は整えていても、魂そのものが、その任を果していないのではないか。これは言い過ぎであろうか。

若し天の理が、大自然の動きを、神や仏の業と称し、宗教界がその考えと不離一体となり、教導しているならば、真っ先に反省を求めなければならないのは、心と魂を導く、宗教の世界ではなかろうか。仏教界の先人が、かつて私に語ってくださったことがある。

「仏の世界にが住む」と。極論だからと笑って過ごした時を思い出す。

国家の司令塔である内閣が、機能不全であるのは、組織と制度に頼って、政治家の「人格と愛国の魂」が、抜けガラと化していると見るべきである。

同様に教育の世界も、「自由と平等に魂を奪われ」、放逸にして、怠惰な人間を育てているのではないか。「ゆとり教育」とは一体何だったのか。

まして人間の魂を育てることこそ、宗教界の本命であると云うのに、かえって、非課税の豪華絢爛の殿堂に安住し、知らず知らずに「惰性と化しておりはしないか」。

宗教界各教団の代表に、世襲を非難するつもりはない。しかし、「組織と殿堂護持」のため、開祖、宗祖の血の滲む修行と、布教の行が軽視されてはいないか。

人間の魂を生み、育てているのは、神、仏だと信じている。政治、教育、宗教各界の反省と、懺悔と、真の祈りが、今こそ求められている。


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