第7回もうひとつの戦争展TOP

塚本先生挨拶

 講師の竹田恒泰氏の講演に入る前に塚本先生の挨拶が行なわれた。 この短い時間であるにも
かかわらず内容が面白いので紹介したい。
 先に行なわれた北京オリンピックでの感想に、やはり代表選手が勝てば嬉しく、負ければ悔しい。
女は勝ったが男は負けた。星野君も可哀相なくらいにマスコミに叩かれているが、60年も「お前が
悪い」と言われ続け、男がいなくなった。戦いに去勢された。 戦争は避けるべきだが、自分が攻め
て行かなければ戦争が起きないというものではない。 攻めて来る相手に、うまみ以上の損害があ
ることを知らしめれば攻めてこない。 自国民を食わせられず核を持った将軍様がいる。 この際、
日本も「核を持つぞ」といえば、アメリカは驚き、「核で護るからやめなさい」と言ってくるだろう。非核
三原則の「持ち込ませず」をなくすことである。集団的自衛権を否定したことにアメリカは嫌気が指し
ている。 護ってもらうが助けないでは、属国と同じである。日本の他人事の姿勢に責任がある。 
戦いを去勢された姿が、オリンピックで示されているのではないか、と締めくくった。

竹田恒泰氏講演 『昭和天皇の御聖徳』

竹田恒泰(たけだ・つねやす)
    
   

昭和50年、旧皇族・竹田家に生まれる
明治天皇の玄孫にあたる。平成10年
慶應義塾大学法学部卒業。憲法学・史
学の研究に従事。作家。慶応義塾大学
研究科講師。「特殊憲法学」を担当。
平成18年に著書『語られなかった皇族
たちの真実』で第15回山本七平賞受賞
他の著書に
『旧皇族が語る天皇の日本史』

『エコマインド〜環境の教科書』
『皇室へのソボクなギモン』等。
 冒頭、北京オリンピック観戦の感想から
入った。
馬術競技では至るところにパンダや龍の
置物がありプレス席もコテコテの屋根をつ
け、観客席からは競技が見えない。そんな
ことはお構いなく、どのアングルからも中国
をアピールできる設備設定に違和感を感じ
たそうである。開会式で1800もの花火を
打ち上げたが、日本のオリンピックは、そん
なことをしなくとも天皇がおられる。陛下が
来られ雨が上がった。これを世界はエンペ
ラーズウェザー(天皇晴れ)と紹介した。
 中国の近代の歴史で、孫文や蒋介石が革命を起こしたが、そのお手本となったのが「明治維新」。しかし、それが上手くいかなかった。そ
の決定的な違いは、天皇の存在にあった。
 昭和天皇と靖国神社について、天皇陛下の御親拝が途絶えているが、これは、陛下の高度な判断がなされた。御親拝で中国などから名
指しで批判があり、それで中止しようならこれほどの屈辱はない。そこで、年2回天皇の「勅使」を使わされた。勅使は、天皇ではないものの
ほぼ同等、作法は全く同じである。その勅使を遣わすことで天皇の行幸と同じとする。勅使は、総理より上、並んだ場合、勅使が、上座につく
立場である。 御親拝はないが、勅使を遣わし、中国、朝鮮や共産党や社会党からも批判が出ていない。この政治的才覚は素晴らしい。

 立憲君主国の天皇は、明治に出来上がっている。昭和天皇は、立憲君主のお姿を最後の最後まで追及された。 天皇は、立憲君主国とし
ての「政治」。神事を行なう、祈る存在「祭主」。この二つをあわせて「統治」という。「政治」が昼の顔であり「神事」は夜のお姿。 神事は太陽
が登る前に天皇自ら行なわれなければならない。 昼のお姿である「政治」は天皇が直接行なうことはなく、適任者を任命する。 それが将
軍であり、大臣である。 絶対君主国家のように間違った歴史解釈をする人がいるが、天皇が自由に政治を動かす制度にはなっていない。
 国務事項は国務大臣が行い、国務大臣が責任を負う、軍事は統帥部が責任を負うようになっている。帝国議会では天皇をお呼びするが、
天皇が、国務と統帥部で決定されたことを変えるようなことはない。 しかし、昭和天皇は過去三回、超憲法的な振る舞いをされなければい
けない時期があった。 最初は226事件。このときは、内閣総理大臣の安否も分らず政府不在状態となり、反乱将校に味方する国務大臣も
いた。このとき、鎮圧の勅命を下された。 
 次が、昭和16年9月。開戦直前の御前会議にて、日米開戦が決定された。本来、御前会議で天皇は発言しないがこのときは、明治天皇の
御製「四方の海」を二回お読みになり、開戦の決定に白紙還元を促した。しかし、その後、米国からの「ハルノート」「ABCD包囲網」等で開戦
は避けられなくなったのは周知の通りとである。
 そして三回目が、終戦の御聖断。 政府と統帥部が国策決定能力を欠いてしまった時期、徹底抗戦を主張する側、ポツダム宣言受諾を主
張する側が真二つに別れ、議長の鈴木貫太郎の一票の重みに天皇の考えを仰いだ。 
 御聖断については、有名なので、あまり表に出ていないところを話したい。8月12日の段階で、在京の皇族方が皇居に呼ばれ、昭和天皇
は明治天皇の三国干渉当時の御苦衷をしのび、戦争を終結する決意をし、皇族たちへは再建に取り組むことを示された。 後に陛下は、マッ
カーサーに自分のことはどうなってもよいから国民を飢えさせないように願い出たことが、このとき皇族に語られた。 そして、最前線で敵と戦
う部隊に矛を収めさせるために、皇族を戦地へ派遣し、陛下の気持ちを伝え、恙無く終戦を迎えられるように命じ、また皇帝溥儀に亡命の意
思があれば、救出すること密命があった。 溥儀皇帝と連絡が取れ、京城で合流することとなったが、残念ながら、皇帝の飛行機は、高い山
脈を超えられず、奏天が落ち合い場所となったが、すでにソ連軍が進駐し、溥儀皇帝はシベリア抑留となった。
 歴史に「もし」は禁物というが、もし、溥儀皇帝と竹田宮が合流できていれば、その日の内に東京へ入ることが出来、東京裁判での証言は
違ったものになっていたであろうことが悔やまれる。
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